1978年、アメリカ西海岸のFM局はこぞってポール・アルキメデスJr.をフィーチャーし、サンディエゴのビーチには夜明けから夕暮れまでずっと彼の歌声が響いていたが、それと同じか、いや一部若手DJの間でそれ以上に、ビーチでの人気を獲得していたバンドがご存知POPOである。POPOの77年作「スペース・ロザーナ」がそうであるように、当時ロサンゼルス発のAOR作品の多くがオーシャンウェイウェイスタジオでわいわいと交流しながらレコーディングされていたことはこのノーツをご覧の方々ならよくご存知だろうと思う。「スペース・ロザーナ」に参加しているマイク・ポカロンをはじめ、ウエストコーストの凄腕ミュージシャンがこの華々しい西海岸AOR文化を支えていたの同じように、裏の裏方、要するにダブル裏方としてアーティスト・ミュージシャンの両者を支えていたのが、オーシャンウェイウェイスタジオに属するレコーディングエンジニアたちである。先にも少し書いたが、当時のオーシャンウェイウェイスタジオでは大人たちがわいわいと酒を酌み交わしながら各自銘々に歌や楽器をかき鳴らし、スタジオの盛り上がり(いや正しくは「酔い」だろうか)がピークに達したところで、雰囲気を察したエンジニアがすかさずテープを回すという手法で楽曲が録られていたということもあって(その分昨今のデジタルなタイム感では成しえないゴキゲンなグルーヴが聴けるのだが)、このスタジオのエンジニアには音響操作の技能に加え、アルコール好きな関係者とどれだけ飲酒を進めた時でも、グルーヴの一瞬を見逃さずにオープンリールを回すことのできる神経が求められていた。(※お酒は20歳になってから)そんな業界の中で一番の酒豪エンジニアとして知られていた彼こそが、ギソブン・イケダである。ギソブン・イケダは日本人で和太鼓奏者の父、池田仙吉とアメリカ人でピアニストの母、レイラ・アンダーソンの間に生まれ、幼少の頃から和洋様々な音楽に囲まれて育った。彼は、ミュージシャンの両親を持つ子どもの多くがそうであるように、物心付いた時にはピアノやギターの演奏を一通りやってのけ、10代半ばにはギタリストとしていくつかのアルバムの録音に参加している。しかし、若きギソブン・イケダの興味はギターというよりも、むしろレコーディング・録音技法に向いていたようで、若き頃の筆者の興味といえば何かと色恋沙汰に向いていたことを思うと、ギソブン・イケダの音に対する情熱たるや、ただただ敬服させられるのである。話が逸れたが、今日私の手元のレコードコレクションの引き出しの五段目の最奥部から引っ張り出してきた資料を調べた限りでは1972年発売のチック・モーリア「リターン・トゥ・ファイバー」の3曲目にアシスタントエンジニアとして彼の名を確認でき、おそらくここから彼のレコーディングエンジニアとしてのキャリアが始まったのだろう。彼のバックグラウンドとなったハイスクール時代の音楽関係については1981年発売の「Alcohol&Recording
9月号」においてギソブン本人が詳しく述べているのでここでは改めて取り上げないが、のちにグラミー賞を8度受賞するブライアン・ニーヨが同校を同じ年に卒業しており、音楽に親しむ場所としてはこれ以上ない環境だったようだ。(中略)さて、そんなギソブン・イケダと祖父と孫との関係にあるのが、我らが理科ブレの池田MTKである、と言いたいところだが、あいにく私は確たることを知らず、単に名字が同じだけかもしれない。真相が気になる方は本人に直接尋ねてみてほしい。ただ私がはっきりと言える確かなことは池田MTKは理科室コーヒー実験ブレンドのギタリストであり、理科室コーヒー実験ブレンドは彼を含めて四人の男たちが歌い踊る、正統派ヘンテコひねくれポップロックバンドとして関西地方を中心にノリにノって活動中ということである。
(文:銀澤吉郎)
2088年発売「理科室コーヒー実験ブレンドオールタイムベスト ライナーノーツより引用」
紙面の都合上、他メンバーの詳しい紹介は順次進めてまいります。
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◆メンバー
Vo:ダイオキシンボーイ
・好きな飲み物-レッドブル
・好きな樹木-竹
Gt:池田MTK
・好きな飲み物-ラーメン
・好きな樹木-黒壇
Ba:マウンテン・ポン太郎
・好きな麦茶-飲み物
・好きな樹木-サキシマスオウノキ
Drs:Dr.you
・好きな飲み物-冷凍紅茶
・好きな樹木-ユーカリ
Twitter アカウント
バンドアカウント (@rikashitsu_cjb)
Vo:ダイオキシンボーイ (@dioxin_boy)
Gt:池田MTK (@coffee_MTK)
Ba:マウンテン・ポン太郎 (@Mt_Pontaro)
Drs:Dr.you (@A_ha_Luka)